政治家(元衆議院議員)城内みのる、公式ホームページと政治ブログ 国家国民のために、信念を貫く男。万民幸福は私の究極の目標です。いかなる時も国家国民のため、信念を貫きます。

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★活動報告★ 10月30日(火)、31日(水)(写真付)

Archive for 10月, 2007

★活動報告★ 10月30日(火)、31日(水)(写真付)

 30日(火)の午前中は太田誠後援会長と地元を廻った。地元の某最有力企業も旗幟鮮明にして応援してくださるとのこと。ありがたい。
 午後龍山町によってから水窪町に向かった。夜城内実水窪後援会の幹部会に太田後援会長とともに出席した。水窪の各地区からそれぞれ代表が30名集まった。水窪町といっても、本町、門谷、神原(かんばら)、小畑、竜戸、長尾(なごお)、西浦、草木、大嵐(おおぞれ)、大野、向市場、上村、向島、地双、門桁といった15の自治会で成り立っている。dsc05122.jpg
 午後6時に○○屋に着いた。支援者の水窪町女性部幹部のKさんが天然もののくりたけと本しめじを持ってきてくださった。さらに、地双のTさんより、つがたけをいただいた。これは松茸よりもはるかに香りがある。いずれにせよ、30日の夜は水窪のSさん宅に後援会長とともに泊まった。dsc05135.jpgdsc05119.jpg
 翌31日(水)の午前中には、佐久間町の城西地区を数件廻った。それから浜松市内にもどり、県下最大のトラック運送会社を太田後援会長とともに訪れ、支援の確約を得て帰ってきた。たまたま支援者の方から都田川でとれたばかりのずがに(=もずく蟹、中国の上海蟹)をいただいた。今日おいしくいただいた。
 いずれにせよ、充実した二日間であった。dsc05137.jpg

◇ コ ラ ム ◇ 木下恵介監督

 私城内実が古い戦前のSPレコードを収集していることをこのブログでも何度も紹介した。現に城内実のHPの関連文章等で内容がややマニアックなので反響は今ひとつであるが、私の過去執筆したSPレコードに関する随筆「昭和ーSPレコードで辿れば」を掲載した。
 城内実はSPレコード以外にも日本映画すなわち邦画もこよなく愛している。私の出身地の浜松は日本が誇る映画監督の木下恵介氏を輩出した。木下恵介監督といえば、「稲妻」、「二十四の瞳」、「カルメン故郷に帰る」(日本初の総天然色映画)、「カルメン純情す」、「喜びも悲しみも幾年月」などで有名である。いずれも女優の高峰秀子さんが主演している。
 高峰秀子さんといえば、私が中学生の頃に「私の渡世日記」(上、下)を読んで感動し、それ以来大ファンである。戦前では、灰田勝彦氏との共演の「秀子の応援團長」や徳川夢声氏との「綴方教室」などですばらし子役を演じた。
 高峰秀子さんといえば、戦後ナショナルのコマーシャルでも有名な大スターである。女優としての絶頂期に小豆島で「二十四の瞳」のロケをやった。木下恵介監督はそこで当時助監督とは名ばかりで事実上の使い走りで全く無名の松山善三氏を高峰秀子さんに紹介する。そして二人は後に生涯独身の木下恵介監督の仲人で結婚する。「私の渡世日記」によると、10代の高峰秀子さんの初恋の人は若き黒沢明監督であったそうだ。私はなんといっても木下恵介監督が偉いと思ったのは松山善三という名も無き人格者を高峰秀子という本当は地味で派手なことが大嫌いな女性と縁結びをしたことだと思っている。
 松山善三氏といえば、どちらかというと脚本家であり監督作品は意外と少ない。しかし、昭和36年の作品である「名もなく貧しく美しく」(高峰秀子、小林桂樹主演)や「典子は、今」(昭和56年)は日本映画史上に残る名作である。
 いずれにせよ、浜松が生んだ偉大な映画監督は木下恵介であり、偉大な作詞歌は高峰秀子が戦中に歌った「森の水車」や田端義夫の「かえり歌」などを作詩した清水みのるである。
 ちなみに木下恵介監督の弟の木下忠司氏は作曲家で、「カルメン故郷に帰る」の音楽を担当し、黛敏郎の曲を編曲している。黛敏郎が作曲した「カルメン故郷に帰る」の主題歌の「花のパリーのシャンゼリゼー」という高峰秀子さんが歌う歌詞の文句が私は好きである。デコちゃん(高峰秀子さん)ファンとあってはビクターから出た「カルメン故郷に帰る」のレコードはもちろん持っているが、戦後の高峰秀子さんのSP盤の「銀座カンカン娘」は私は同じものを三枚所有している。どこにでもあるありふれた盤であるが、「カルメン故郷に帰る」は意外と少ない。 
 
 
 

★活動報告★ 10月28日(日)(写真付)

 今日は朝から強行軍であった。9時半に地元浜松の可美小学校で行われている可美地区町民運動会に行った。可美は、なんといってもスズキ自動車の本社があることで有名な地域である。私の親戚(父のいとこ)の袴田氏もこの可美住んでいるので身近に感じる地区である。
 可美は高塚南、高塚北、増楽、若林西、若林東、若林北、東若林といった7つの自治会で構成される。各自治会の支援者の皆さんに引き回していただいた。可美商工会の婦人部のみなさんもいらした。メインイベントは各町対抗の綱引きであった。各町で負けじと真剣に綱引きをやっていた。
 昨日は大雨であったが、今日は運動会びよりの秋晴れであった。およそ1000人近い老若男女の方々がスポーツの秋を楽しんでおられた。壮観である。dsc05043.jpg
 続いて私の居住している三方原地区の豊岡小学校でも運動会があったので行った。豊岡小学校の校区は根洗、百園、清水、豊岡、三幸、東三方、東三方官舎の各自治会である。懇意にしている自治会長さんはじめ私の子供の同級生の若いお父さん、お母さんがいらした。みんな歓迎してくださった。dsc05046.jpg
 その後は、北の旧天竜市に向かった。天竜厚生会祭りが開催されていた。この地区は障害者や老人の福祉施設があるところである。ここでも3000名を越える大勢の方々が来ていた。時間の都合上30分いて帰ろうとしたが、握手攻めにあい、一時間近くいることとなった。顔なじみの天竜の「うんなの里」をはじめとする支援者のみなさんもそこにいらした。dsc05048.jpg
 それから、いそいで浜北の宮口に向かった。そこでは、田舎の一地酒屋から全国区に飛躍しつつある「花の舞」酒造の年に一度の振る舞い酒の会が開催されていた。花の舞酒造の高田社長の話によると、快晴ということもあって約5000名の人出でにぎわっているとのこと。たしかに沿道には人また人の波である。この日は花の舞の蔵出しの酒が無料で全員に提供される。全国から酒好きが集まる日である。高田社長は私の父の高校の後輩である。大変な実業家である。高田社長に聞いた。「こんなに大勢の方々にただでお酒を振る舞えば大変な赤字ではないですか。」。高田社長曰く、「もちろん大赤字ですよ。でも毎年一度くらい、『花の舞』」を飲んでいただいているファンの方や、お世話になっている地元のみなさんに感謝の気持ちをこめてこういう楽しい催しものをやりたいんですよ。」これを聞いて本当に頭が下がる思いがした。目先の利益を考えずに、感謝の気持ちをこめてお客様を大切にするこのまごころ。きっと花の舞はこれからどんどん繁盛するであろう。dsc05051.jpg
 実は「花の舞」が全国区になりつつあるのは、私の知り合いの土田一仁という若い有能な杜氏ががんばっているからである。今日も元気に土田さんが沿道のみなさんにお酒を振る舞っていた。
 午後1時には花の舞の宮口を離れ、湖西市の新所原に向かった。新所原は私の選挙区の最西端で愛知県の豊橋市に接しているところである。湖西市にはアスモというトヨタ系の大企業があるが、私の親戚の城内幸則氏が勤めている。私がなぜこういうことまでこのブログに書いているかというと、多くの方が私がこの静岡県西部地域に全く縁もゆかりもない落下傘候補であるという誤解をもっているからである。私は東京生まれ東京育ちではない。現在42歳であるが父の転勤でふるさと浜松を離れ、日本全国を転々としていた。第二の故郷は小学校一年から四年まで過ごし、外務省時代もああわせて約10間生活したドイツである。第三の故郷は生まれてから三歳まで過ごした広島市、第四の故郷は中学高校と過ごした横浜である。
 先々週、週刊ポストに10月8日の地元浜松市における4000名を越えるシンポジウムの模様がグラビアに載っていたが、私の経歴のところに「東京都出身」とある。確かに外務省時代と幼稚園(新宿区立淀橋第四小付属)、小学校時代の一部、ドイツから日本に帰ってきた数年、東京に住んでいたが、次から次へと引っ越してるので、東京都民という感覚があまりない。
 新所原では政治評論家の福岡政行先生と城内実応援会会長の太田誠駒澤大学野球部名誉監督とともに講演を行った。新所原駅北口から出てすぐ左にある公民館には約100名近い方々が集まっておられた。dsc05062.jpg
 それから、私が仲人をつとめた中村洋志君の上棟式が雄踏町の掘出前の住宅街であったので、家族ともども参加させていただいた。七歳、六歳の長男、次男とともに、二階にのぼって、上からお餅やお菓子を下に集まってるひとたちに投げた。ふと手元をみると、お餅投げのお餅は雄踏町の「大和屋」のものであった。私の祖母方の父が明治から昭和にかけて現在の天竜佐久間町(旧山香村)の西渡で菓子屋を営んでいたが、その店も「やまと屋」であった。昭和のはじめに西渡の大火事があり、店が全焼したため昭和初期に浜松駅の南の海老塚町に新たに「磯浜」(磯部が浜松に店を構えたから)をオープンした。もうこういった事実を知る方々は少なくなってきた。
 最後に花川の農協で福岡政行先生の講演があった。数えてみれば190名近い方々がお越しになっていた。本当にありがたい。これからも全力で国政復帰をめざしてがんばる所存である。 dsc05107.jpg
 

★活動報告★ 10月27日(土)(写真付)

 今日は朝から雨であった。午前中は浜北の産業祭りに参加、顔なじみに多くの支援者が歓迎して下さった。四年前までは顔と名前が一致していない方々も今では、ほとんどが懇意の方ばかり。「○○さんお元気ですか?」と呼びかけると笑顔でかえしてくれる。
 昼過ぎに近くの万葉の森公園で「万葉祭り」が開催されていた。あいにくの雨で人はやや少なかったが、ここでも万葉集の研究家であり、私の後援会メンバーの山下智之先生もいらしていた。
 午後は政治評論家の福岡政行先生の時局講演会を開催した。午後3時からは篠原地区(約120名)、午後6時半から村櫛町(約80名)の二カ所で開催した。私の応援会の会長である、太田誠駒澤大学野球部名誉監督も夜の部から来て下さって応援弁士として活動していただいた。
篠原地区
村櫛町
 明日も福岡政行先生にお願いして、二カ所で講演を行う予定である。今日も明日も約300~1000の世帯数がある自治会であり、贅沢なことに福岡先生が小さな公民館に来てくださり貴重な政治の裏話をして頂く。
 篠原地区の講演会終了後、外に出ると雨もやみ、大きな虹が出ていた。モノカネ中心の物質文明とはほど遠い信頼関係とか環境とか目に見えないものを大事にしようと考えている。
虹

◎ 政 治 ◎ 平沼新党? 

 最近週刊誌やら新聞で「平沼新党か?」というような見出しが並んでいる。城内実は一貫として「次回の衆議院選挙は国家国民のための真の改革を断行するためにも、ぶれずに無所属で信念を貫く」という立場をとっているので、選挙の前に無所属ではなく、特定の政党に所属するわかにはいかない(政党に所属すれば、無所属よりも政見放送、選挙ビラ、ポスターなどで優遇されているのみならず、金銭的には国民の血税で一人あたり年間4600万円の政党助成金がいただける。無所属は0円である。しかし、しがらみのない政治をしたいものにとっては、大衆迎合せずに堂々と正論をはくためにも0円で結構と思っている。)。
 平沼赳夫先生と行動を共にすると誓った以上、真相を確かめなければならない。今日久しぶりにチャンネル桜の収録で東京に行ったので、平沼赳夫事務所に立ち寄った。たまたま平沼赳夫先生がいらしたので、いろいろとお聞きした。この場で詳細について多くは語れないが、安心して浜松に戻った次第である。
 もしかすろと、次回の選挙の後に政界再編があるかもしれない。それまでに地元と全国の城内実応援団とともに戦い抜きたい。

◎ 政 治 ◎ 福田政権の行方 

 私が連載している月刊誌「耀」の11月号の原稿を以下で紹介する。
 ところで、今回構造改革路線派の方からトラックバック(もじもじスケッチ)を通じて貴重なご意見をいただいたので、この場を借りてリンクを貼らしていただくことにした。改革の問題については、賛否両論あると思うが、これからもみなさまからのご意見をお待ち申し上げる。
 「民意」も大事であるが、「天意」というものも大事にしたい今日この頃である。このことについては、分かる人は分かるであろうが、分からない人は一生分からないであろう。

題名:福田政権の行方

先日地元浜松で講演をした。ふと会場の正面を見ると演題が訂正されていた。「安倍政権の行方」という演題の「安倍」の部分に「福田」という紙が貼られていた。なんとも言いようのないむなしさがこみあげた。
 この講演会の演題を決めたのが八月末頃。秘書のO君は、参議院選挙の大惨敗を受けて安倍政権がこのままどうなるか分からないので、安倍退陣も想定して「日本の改革の行方」というような無難な演題にすべしと進言してくれた。だが、私はテロ特措法の延長に命を賭けんばかりの気概を持っておられた安倍晋三先生の姿を見て、解散総選挙も辞さずで少なくても十一月までは持つだろうと考え、敢えて「安倍政権の行方」という演題にこだわった。結果は残念ながらO君の予想通りになってしまった。
 テロ特措法の延長問題については、賛否両論があり、非常に難しい問題であるが、中身がどうあれ、強力なリーダーシップを発揮すれば国民は安倍首相についてきたはずである。ひょっとすると低迷していた支持率も上がったかもしれない。郵政売国法案ですら、小泉元首相の「殺されてもいい」という「覚悟」があったから、国民がその「覚悟」に心酔し、思考停止状態に陥り、なだれをうって自分たちの首をしめる悪法に賛成したのである。
 平沼赳夫先生が先般述べておられたが、安倍晋三首相があと一時間がまんして、最後の力をふりしぼって代表質問の冒頭で「テロ特措法の延長に命をかけます!」と絶叫して本会議場の壇上で倒れ、慶応病院に運ばれたなら、情勢は全く違っていたとのこと。確かにそのとおりである。明治時代に土佐藩出身の自由民権運動家の板垣退助が暴漢に襲われて倒れた時に、「板垣死すとも自由は死せず!」と叫んだ文句は一世を風靡し、板垣の人気を不動のものにした。それくらいのことができなかったのか。前号でも述べたが、全く最悪のタイミングでの辞意表明であった。
 参議院選挙対策にしても、私がもし安倍首相の側近であったならば、「小沢一郎氏と私をどっちをとるのか」という子供のけんかのような台詞を絶対に言わせない。強行採決の連発も最悪の戦術であった。それよりも徹底的に小沢一郎民主党代表をもちあげる。ほめ殺し作戦である。「小沢一郎代表は日本の政界になくてはならないキーマンである。選挙に負けてもどうか引退しないで欲しい。ミスター年金の民主党の長妻昭氏は年金問題の日本一のエキスパートである。参院選が終わったら、自民党は、小沢さんや長妻さん、野党の代表者も入れて年金問題解決のための超党派のプロジェクトチームを作るので是非参加していただきたい。」と言わせればいいのだ。こういう話を持ちかけられると、民主党側はイエスともノーとも言えない。国民の手前、ふりあげたこぶしをおろせなくて困惑するはずである。
 十月八日、私の地元の浜松にて城内実後援会主催のシンポジウムを開催した(詳細は城内実のホームページ参照)。パネリストは、平沼赳夫先生、櫻井よしこ先生に城内実の三名、コーデイネーターは関岡英之先生という布陣であった。定員二千三百名の会場は数百名の立ち見が出るほどで、別会場の展示イベントホールも満席、総勢四千名を越える大盛会となった。当日は地元の浜松以外からも全国各地からこのシンポジウムに多数ご参加いただいた。この場をお借りして感謝申し上げる。
 このシンポジウムでは平沼赳夫、櫻井よしこ両氏から安倍晋三前首相に対して肯定的な評価がなされるとともに、福田康夫首相に対してやや厳しい見方がされた。真正保守派からみれば、福田康夫首相はあまりにも中国寄りで、歴史認識の点で不満があるのだろう。しかし、福田康夫首相は今のところ(10月中旬現在)代表質問、衆参の予算委員会の質疑で無難に野党の攻撃をこなしている。30%代で低迷していた安倍政権下の支持率も50%前後と持ち直した。
 参議院で野党が過半数を制しているせいか、福田首相の答弁は平身低頭という感じである。参議院選挙前の強行採決の連発がうそのようである。予算にしても、あれだけ「聖域なき」構造改革と叫んできたのに、公共事業、特に道路の財源の見直しが進んでいる。
 前回の参議院選挙における自民党の惨敗は明らかに、地方切り捨て、弱者切り捨ての構造カイカク路線に対して長年の自民党支持者及び庶民からノーがつきつけられた結果である。マスコミの中には、安倍政権において構造改革路線への取り組みが中途半端だったからというとんちんかんな主張をする者がいるが、これは地方の空気を全く読めていない(いわゆるKY)東京という井の中にいる蛙の妄言である。
 先日「不都合な真実」で環境問題に警鐘を鳴らしたアル・ゴア元米国副大統領がノーベル平和賞を受賞した。ヨーロッパも含めて世界の潮流は、弱肉強食型の新自由主義経済路線から、環境や平和を大事にする時代に入っている。このことに福田政権が気がつかないようでは、単なる選挙管理内閣で短命に終わるであろう。
 

◎ 政 治 ◎ 郵政民営化に関する「今年の年次改革要望書」 

 アメリカから毎年我が国に対して年次改革要望書が提出される。一年を通じて日米間で最も重要な文章であることは間違いない。ところが今年の年次改革要望書についてマスコミは報道しようとしない。本当に不思議である。
 外務省に14年間いた身として言わせていただければ、NHKのテレビのニュースで報道しないまでも、どこか新聞の三面記事で二行くらい載せて欲しい。ところが、ほとんどそれらしき報道が無いこと自体おかしくないだろうか。
 世の中には偽善者ずらをして、実はあることないことを言って、人心をまどわすとんでもない悪人が多い。私の身近にも何人かいた。それは私の不徳の致すところである。
 年次改革要望書について報道しようとしない一部マスコミは所詮国家国民のためというよりも、「触らぬ神に祟りなし」で自分たちの身の安全しか考えていない存在であるのではないか。
 いずれにせよ、年次改革要望書についておもしろいブログを発見したので以下で紹介する。
 神州の泉 

◇ コ ラ ム ◇ 「お祖父さんの時計」(写真付)

 「お祖父さん時計」という歌をご存じの方はいるだろうか。私の持っているレコードは昭和15年(1940年)9月の新譜で、A面はコロムビアのスリーシスターズのジャズソング「夢去りぬ」でB面が「お祖父さんの時計」である。
 このレコードは最近まで比較的入手困難な稀少盤であった。「お祖父さんの時計」は、門田ゆたか作詩、仁木他喜雄編曲のジャズソングで、ミミー・宮島の歌とタップダンスのアメリカ調の曲である。
 みなさんもどこかでこの曲名を聞いたことがあるのではないだろうか。この「お祖父さんの時計」こそ、平成14年(2002年)年に平井堅のカバー曲で一世を風靡した「おじいさんの古時計(Grandfather`s Clock)」の元となる曲である。
 「お祖父さんの時計」はもともと1876年にアメリカのヘンリー・クレイ・ワークが作曲した歌であり、世間では昭和37年(1962年)のNHKの「みんなの歌」ではじめて日本に入ってきたということになっている。
 しかしながら、それは間違いであり、約70年前に既に日本に入ってきたことが意外と知られていない。誠に不思議である。 
SPレコード 
歌詞
 (上記歌詞カードはN氏所有のものを大阪のK氏のご好意でコピーをいただいたものこの場を借りて感謝申し上げる。)

◇ コ ラ ム ◇ トミカ

 今日は仕事の関係で長野で講演した。直線距離であれば電車で三時間程度のところであるが、わざわざ浜松から東京まで新幹線で行き、長野新幹線に乗り換えた。会場は長野県の山ノ内町であった。講演を終え、特急「しなの22号」に乗って三時間かけて名古屋に到着。名古屋から新大阪まで一時間。
 明日は大阪である団体の総会に出席する。21日(日)には浜松でいろいろな行事があるが、今回だけは前々から決まっていた日程なので浜松の行事は妻と秘書のみなさんでこなすことになった。
 大阪について地下鉄に乗った。駅を降りたらたまたまトミカショップがあった。二人の息子たちがトミカが好きなので、ちょっとミニカーを一個ずつ買おうと思って店に立ち寄った。
 そうしたら、私が好きな昭和30年代の日本の旧車のミニカーが売っていた。子供の土産はそっちのけに、Tomika Limited Vintage のトヨペットコロナ1500パトカーやら、日産グロリアパトカー、三菱デボネア(初代)、プリンススカイラインデラックスなどなどを物色。日活名車座などというシリーズもあった。
 三丁目の夕日が一世を風靡したが、私が生まれたのが昭和40年。生まれる前の昭和30年代の日本は、国産自動車のみならず、映画、野球、相撲と町に活気があふれていた。その後の高度経済成長がもたらしたものは良しにつけ悪しきにつけ物質的な繁栄である。
 昭和30年代の日本のアメリカに対するあこがれは相当なものであった。あれから半世紀確かに日本は物質的には繁栄したが、精神的には貧しくなっている。だからこそ昭和30年代の日本に立ち返って、生活が苦しくても娯楽でストレスを解消する社会、お互いが助けあう共存共栄の社会をとりもどすべきではないか。
 トミカの昭和30年代の国産車を見てそう感じた次第である。

☆お知らせ☆ HP開設から早4ヶ月

 このたびHPを開設して以来、ちょうど4ヶ月たちました。その間多くの方々に城内実のブログ「とことん信念」をはじめ動画や城内実関連文章等をご覧になっていただきました。
 アクセス数はアクセス解析ソフトのfanaで調べた結果によると、この4ヶ月でユニークユーザーで約9万1千、ページビューで約22万に達しました。
 日本一の政治ブログをめざしておりますが、まだまだ一日のアクセス数が十分ではありません。このブログをご覧になった方はいろいろなところに城内実のHPのリンクhttp://www.m-kiuchi.com/を貼って下さい。
 今後とも皆様の意見を下に城内実のHPをどんどん改善させていく所存ですので、どうか宜しくお願い申し上げます。