2006年4月の記事一覧
教育基本法の与党改正案が出された。自分は現職の国会議員であった頃、次のようなことを主張した。愛国心を入れるべしとの議論があるが、「愛国心」といった場合受け止め方は人それぞれであり、狭隘なナショナリズムととらえる人もいる。それよりも、「郷土を愛し、自国(日本)の伝統・文化を尊重する心を養う」といった表現にすべきではないかと。
戦後60年経ったが、日本国民の間に本当に健全な愛国心というものが育っているとはいいがたい。にもかかわらず、「愛国心」というものをいきなり入れると教育の現場でかえって混乱するのではないだろうか。「愛国心」ないし「国を愛する」とはどういうことか説明せよと現場の教育者にたずねてみてもどのような回答がかえってくるか推してしるべし。
それよりも、むしろ「郷土や伝統・文化を愛する」とした方が自然である。郷土や伝統・文化を心から愛してはじめて万国共通の健全な「愛国心」というものが生まれるのではないかと考える。同じようなことを「国家の品格」の著者の藤原正彦先生も主張しておられる(「愛国心」よりも「祖国愛」とすべしと)。
こうした自分の考え方に対して、「世界の中でこれだけ愛国心に欠けている国民は日本人だけである。だから国旗・国歌に関する法律を制定したように、愛国心を上から押しつけないとだめだ。」と反論された方もいた。それはそれで一理あるが、精神面にかかわるものは時間をかけてじわじわと吸収しないと身に付かないと思うが、みなさんはどう考えるか。
いずれにせよ、世界190か国の善良なる国民と全く同じように、日本人が自国に対する誇りを持ち、アメリカや中国といった超大国に卑屈にならず精神的にも依存せず、武士道精神という日本特有の精神を涵養するような教育を是非ともしてもらいたい。
4月15日(土)
建築家の安藤忠雄さんは、同潤会アパートを六本木ヒルズをはじめこのごろはやりの高層ビルではなくてあえて低層にして地下を深くした。古いアパートのおもかげも一部残したという。
経済効率性の観点からは、あれだけの一等地なのであるから、より高い建物にしてたくさんの店舗が入る方が良いにきまっている。そこをあえてやらなかったことを私は高く評価している。
我々が住んでいる町の風景というものに対しては、戦後あまりにも経済効率性を追求し、その結果どんどんその風景が破壊されてきた。しかし、我々や我々のご先祖さまが住む町には過去現在未来に至るさまざまな人間ドラマがあった空間であり、これから新たな人間ドラマが展開する空間である。だから少しずつ町の様相が変わるのは良いかもしれないが、その根本となる町並みは可能な限り残してもらいたい。人々の町並みに対する懐かしい記憶はもっと大切にすべきである。欧州的な「空間の連続性」を尊重すべきである。
私は西岸良平氏の「三丁目の夕日」という漫画を昔から好きでよんでいる。まだ見ていないが最近映画化され結構評判のようである。この「三丁目の夕日」に登場する人物は名も無き人々であるが、狭い地域の空間の中で貧しいながらもさまざまな喜びや悲しみを味わいながら、みんなが懸命に生きている。そこに出てくる町並みは私が生まれるちょうど5ないし10年前の昭和三十年代のものであり、実際に体験したものではないが、妙に懐かしくほっとした幸せな気分にさせられる。地域の住民がお互い助け合ったり励まし合ったりしているその姿に、現代の社会風潮が軽んじている公共精神を見いだすのである。
さて上述した欧州的な「空間の連続性」とはなんのことであろうか。私はベルリンの壁が崩れた翌年にドイツのアウグズブルクという中都市の大学に留学していた。アウグスブルクはディーゼルエンジンの発明者ディーゼル氏ゆかりの地であり、工業都市である。そのおかげで第二次世界大戦中は連合軍の爆撃で町の中心部はかなり破壊された。それにもかかわらず、アウグスブルク市民及び市政府はアウグスブルクが誇る貴重なロココ調の市庁舎(ラートハウス)を何年もかけて修復し続けた。くずれおちたがれきを集めて再利用しながら。私が留学中の十数年前はまだ建物内の壁画が完全に修復されていなかったが、その後ようやく半世紀以上の時を経て完全修復したのである。毎年限られた予算の範囲で莫大の時間をかけてこつこつなおしていく。まさに気がとおくなるような作業である。自分の死後に建物が完成するのが分かっていても、子々孫々に思いを託して全力で修復に取り組む町の有力者をはじめとする関係者たち。ここにも我々が学ぶべき欧州人の公共心を感じる。
今日地元のTKさんという方のご自宅をおじゃました。この方は自分の記憶と多くの証言者の記憶だけを頼りに自分が昔住んでおり、空襲で破壊される前の昭和17?19年の町並みを地図で復元することに成功した方である。その地図を見せて頂いたが、一軒一軒の家に名前が書いてあり、魚屋さん、文房具やさん、八百屋さん、水飲み場、酒屋さん、お寺、神社が書かれていた。
大型店舗がいたるところに進出している現代とは全く異なり、60年前の日本の都市には、自宅のほんのまわりだけで一つの自己完結した生活空間があったのである。そのことを改めて認識した。自動車という便利なものが出来たのは良いが、移動距離が増えた分、自宅近辺の濃密な人間関係、義理人情、助け合いといった精神が稀薄となった。また、損得勘定を抜きにした日本人のこころ意気が失われたような気がしてならない。
自己中心主義を捨て、身近な生活空間を分かち合う共同体精神を大切にしようではないか。そうでなければ日本の未来はないと思う。
4月12日(水)
先の衆議院選挙で落選したことは、ご支援頂いた地元の方々や選挙区外の全国の支援者の方々に対して本当に申し訳なかった。
落選していろいろなことが見えてきた。毎年三万人を越える自殺者が出るような時代になった。まじめにこつこつとかんばってきたにもかかわらず、会社を倒産させて自殺に走る中小企業の社長さんたちの気持ちが実感として分かるようになった。また、地元の資源回収の奉仕活動を通じて、地域の志のある方々とともに汗をかく喜びも味わうようになった。
この世の中には私欲(あるいは我欲)を捨てて、公の精神で社会に奉仕している方々がいる。その多くが黙々と社会奉仕をしている。自己の地位や名声のためにではなく、社会的弱者や地域住民という他者のために貴重な時間と労力を割いている。こういう人たちは本当に党派を超えてすばらしいと思う。
なんども言うように戦後の日本はどこかおかしくなっている。世の中にものがあふれ、物質的な豊かさを享受するようになったが、精神的には貧しくなってきている。行き過ぎた個人主義のおかげで自分さえ良ければよいという連中が増えており、本当になさけない。昨今のいわゆるアメリカ的な新自由主義(ネオリベラリズム)は、規制緩和、市場主義、自由競争と聞こえは良いが、ようは動物園のライオンや虎のような野獣とネズミや鳥のような小動物を全部いっしょのおりにほうりこむようなものである。最後に生き残るのはからだの大きい(資本力のある)ライオンや虎のような野獣だけである。
我欲を捨てて、地域の共同体を大事にし、まわりのひとたちとともに利益を分かち合う、本来の日本人の原点に立ち返らないとこの日本はいずれ衰退していくであろう。
4月10日(月)
今日は細江町の初山寶林寺の祭りがあった。昨日は雨と中国からの黄砂が舞ってお天気は今ひとつであった。本日は快晴でまだ桜も残っていた。毎年第二日曜日の祭りで、一年に一度だけであるが、地域のみなさんとともにお祝いができて本当に良かったと思う。
最近の社会の風潮で、億ションに住み高いところから庶民を見下すようなおかねだけが全ての志の低い連中が多い中、さまざまな肩書きを越えて郷土を愛するという同じ心で地元の方々と心がひとつにつながり、幸せなひとときを過ごすことができた。天に感謝する次第である。
今後とも目線を低くし、地域の皆様とともに汗をかいて少しでも日本国民が健康で快適で幸せな生活を送れるよう祈願したい。
寶林寺で書いた絵馬は、「天下安寧、国民至福、家内安全」。今年小学生一年生になった長男には、つねひごろ地域と社会や、自分を犠牲にしても、国家国民のために役立つ人間になれと教えている。自分の幼少時と同じく、からだが弱い長男ではあるが、精神だけは強くたくましく成長して欲しい。
4月9日(日)
今日は三ヶ日町の初生衣神社のおんぞ祭りに出席した。風も冷たく、中国から黄砂が吹いていた一日であった。天武天皇の御代にこの三ヶ日町岡本地区から織物が各地へ届けられたそうである。
桜の花もだいぶ散ったがまだまだがんばっており、本当に頭が下がる思いである。
先週奥山方廣寺の門前で夜桜見物をした。そこで作った一句。
門前の池に三日月花いかだ
花冷えの桜散る散る花いかだ
4月7日(土)
今日は長男の小学校の入学式であった。私城内実は35年前の昭和46年(西暦1971年)の4月に日本の新宿区立淀橋第四小学校(よどよん)付属幼稚園を離れ、父の勤務の関係でドイツの幼稚園に入園した。同年9月に地元ドイツのボンの小学校一年に入学した。まわりは全部ドイツ人で唯一の髪の黒い日本人で不安だらけであった。それでももちまえの根性でドイツ人の中でがんばった。日本人だから算数は得意であった。小学校を卒業する四年生の時にはドイツ人のクラスメートに宿題を教えてあげるまでになった。ところが小学校四年生の途中に神戸の諏訪山小学校(20年前に神戸小と合併)に編入した。
ドイツの小学校を卒業した城内実にとってははじめての日本の小学校はなにもかも新鮮であった。その後、東京、横浜の小学校に通ったが環境の変化についていくのは大変だったが良い経験になった。
自分の息子がついに小学生になった。甘くなつかしい小学生だった自分のことを思いだし、なつかしむのでありました。
4月6日(木)
本日(4月5日)発売の「わしズム」(春号、小学館)を近くの書店で購入した。これまで何回もこのブログで紹介した「拒否できない日本」、「国富消尽」の著者である関岡英之氏が寄稿されているからだ。
その中に、昨年6月7日に衆議院郵政民営化特別委員会で私が竹中大臣にした質問のやりとりが引用されていた。私城内は、アメリカの日本に対する年次改革要望書の存在を踏まえ、過去一年間に政府郵政民営化準備室が何回郵政民営化問題について協議したか竹中大臣に質問した。竹中大臣より、過去一年間でなんと17回と予想ははるかにこえる回数の日米間の協議があったことが答弁であきらかになった。私は皮肉を込めて、まさかわざわざアメリカが日本の担当者とお茶のみ話しをするために来ているわけではないだろうということを申し上げた。主要新聞はほとんどこの注目すべき国会のやりとりを記事にしなかった。あとで知ったが、記事にしたのは意外にも日本共産党の機関誌「赤旗」一紙だけだったようだ。マスコミは時々自分の都合だけの「報道の自由」のために「国民の知る権利」をふりかざすことがある。しかし、結局日本のマスコミは売り上げ第一主義のためなら時の権力にもおもねるということが分かった。「国民の知る権利」のためといいつつ、それを無視して恣意的な選択で情報操作をする。
戦争中あれだけ軍部の手先となって国家国民を戦争に駆りたてておきながら、敗戦後は手のひらをかえしたようにアメリカのGHQの意のままに(検閲まで受けながら)、戦前戦中の日本を断罪するという我が国のマスコミの節操のなさは今も変わっていないのだろうか。北朝鮮の拉致疑惑に対してつい数年前まであれだけ沈黙し続けたマスコミの前科を見るだけでその本質が分かろう。だから私はいかにネットで自分城内実について誹謗中傷がなされようが、かまわないと思っている(事実無根のものが多く不愉快ではあるが)。自由な個々人の表現、意見発表を通して、TV新聞が報道しないほんの一握りの真実が心ある庶民に伝われば良いと思う。もっとも人権擁護法案が成立すればそれもおしまいであるが。
小林よしのり氏が責任編集長をつとめる「わしズム」を今回はじめて手にした。漫画もあり、とてもセンスの良い季刊誌である。この「わしズム」を愛読することによって、現代の若者たちは戦後の型にはまったどこか自虐的なものの見方から、より自由な視点と発想で日本や世界の流れをとらえることができよう。私もおすすめする一冊である。先週小林よしのり氏の「目の玉日記」も買ったがこれは本当に目の病気のことが良く分かるだけでなく、ユーモアあふれおもしろくて腹を抱えて笑えた。笑いで寿命が何日か延びた気がする。これもおすすめである。
小林よしのり氏とは、ご縁あって西部邁氏のご子息が経営しているイタリアレストランで四年ほど前に食事をご一緒させて頂いて以来で、その後お会いしていないが、氏のご活躍ぶりに触れてうれしいかぎりである。小林よしのり氏の(特に両目の)ますますのご健勝ご発展をお祈り申し上げる。
4月5日(水)
先日小学生に英語教育を義務化することの愚かさをブログに書いたが、私城内実は従来より、中学、高校の英語の教科書の内容を抜本的に変えるべしと言い続けている。
英語の教科書を見るとどうも日本の生徒がアメリカ文化に親しむような内容になっている。いわゆる米占領下のジャック・アンド・ベティの世界と基本的に変わっていない。そうではなくて、太郎と花子が日本にはじめて来たジャックとベティに、日本の伝統・文化を教えるために京都に連れて行ったり、一緒に新幹線から富士山を見たり、お寺や神社に行ったりするような内容にすべきである。また思い切って日本の記紀の神話や俳句、短歌の世界にまで引きずり込んだらどうであろうか。
自国の伝統文化についてきちんと語れない人間は外国人から軽蔑される。外務省時代よく外国人と話をする機会があったが、その国の歴史や伝統・文化をある程度勉強しておいて、会話の中で例えば、「あなたの国のドボルザークは偉大な作曲家ですね、私も好きで良く聴いています。」と言いつつ、「日本にも滝廉太郎、山田耕筰、近衛秀麿、信時潔といったすばらしい作曲家がいました。今度CDをプレゼントしますから聴いてください。」といってさりげなく日本文化の宣伝をするのである。数週間後、先方から連絡があり、「いやあCD聴きました。日本にこんな素晴らしい作曲家がいたのですね。知りませんでした。日本が一層好きになりました。もっと日本のことを教えてください。」となるわけである。こちらは、「もちろんおやすいごようですよ。私もチェッコのことは良く分からないのでいろいろと教えてくださいね。」となり、真の文化交流が成立するわけである。
外国人から日本のことを尋ねられてきちんと答えられないと、たとえ流ちょうな外国語を話せても、露骨に「この人は自分の国のことすら良く知らない教養のない人」と見なされ軽蔑されてしまう。だからなまじ英語ができるよりも、丸暗記やかたことの英語でも良いから日本についてある程度英語で話せればそれで充分である。
4月4日(火)
日本が先の大戦に負けてから六十年近くたつが、その間どうも日本人が日本人でなくなってきているような気がしてならない。「人の心はカネで買える」、「女はカネでついてくる」ということを平然と言い放った現在拘留中のあのあぶらぎったブタさん(本当のりっぱな豚さんに対して失礼な表現であるのであえてカタカナでブタとしました)をあたかもこれからの日本の若きニューリーダーかのごとくもてはやし、政界入りさせようとしたこと、某会長の肝いりで経団連に加入させたことは、狂気のさたとしか思えない。このブタさんは日本とかアメリカとかビジネスができれば国なんかどうでもよいと言っていた。もうかればなんでもありの悪しきあきんど根性は、中国にこびへつらっている財界トップと同じくらい卑しくて恥知らずである。
常日頃ブタさんは皇室なんかいらないとか、日本なんかいらないとか言っていたからか、このブタさんをグローバルな視点で発言する若手の改革の旗手であるかのように賞賛していたIT業界の連中もいた。この人たちは本物と偽物を見分ける区別もつかないくらい感覚がおかしくなっていた。
ちょうど一年前にIT業界の人たちが大勢いる中で例のブタさんのやり方は汚いし虚業だ、いずれ罰があたるというようなことを私が言ったら大ブーイングであった。みんなこのブタさんにあこがれていたのだ。ところが、彼らは今となってあれだけブタさんがぼろもうけできたのは、国家権力のうしろだてがあってはじめてできたということを知るようになった。
このブタさんの対局にあるのがまさに日本古来の武士道精神である。これは欧州の騎士道精神とも多少通じるものであるが、カネもうけさえできれば何でもありの拝金主義を軽蔑し、信頼関係や忠義、正義を重んじる精神である。そもそも金儲け第一主義の悪しきあきんど根性丸出しの財界人が政治に必要以上に口を出し、そこから甘い汁を吸っている議員が仲良く癒着しているから政治がおかしくなっているのである。金儲けのために平気で国を売り、庶民を食い物にして平然としている、自分さえよければ国家国民などはどうでもよいと考えている連中はいずれ天罰が下るであろう。戦前戦中以来あいも変わらず、ある時はアメリカ占領軍、あるときは野党第一党、そして今の与党と、発行部数第一主義でその時々の権力にすり寄り、真の批判精神を放棄したマスコミも同罪である。
今こそ日本人の心を取り戻すときが来た。近い将来、名も無き全国の庶民が党派や思想信条を越えて大同団結して、この異常な世の中の風潮を一新するような気がしてならない。
4月3日(月)







